自分のカラダの境界線
共同体のカラダ
忘年会シーズン、食べ過ぎや飲み過ぎで体調を崩されている方も多いのではないでしょうか。
宴会の席では、つい飲み過ぎてしまったり、
食べ過ぎてしまったりするようです。
では、そうした食べ物を食べたり、飲んだりしているのは、
誰のカラダなのでしょうか。
そんな時、ひょっとすると、私たちのカラダは
私たち個人のものではなく、
そこにある共同体(コミュニティ)の一部になってしまい、
それを飲み食いしているのは、共同体としてのカラダなのかも知れません。
「同じ釜の飯を食う」という言葉があります。
これは、ある共同体のなかで同じ食べ物を食べることによって、
その共同体と一体感を持ち、帰属意識を持つという意味があります。
また、神前式で新郎と新婦が三献の儀をとりおこない、
一つの同じ盃で、御神酒を交互に飲むことによって別々の個人を、
夫婦という一つの共同体に結びつけるという儀式もあります。
何かを一緒に飲み、食べるということは、
個人の境界線を越えさせる力があるのでしょう。
日本の社会と多様性
日本の社会は、同質性の高い社会であると言われています。
同じであること、一緒であること、一体感をとても大事にします。
そこには、沢山の利点も素晴らしい点もあると思います。
でも日頃、そんな状況のなかでは、
カラダごと自分の属するコミュニティの一部になってしまっているのかも知れません。
私たち日本人の共同体への「順応性」が高いのは素晴らしいと思う一方で、
やはりそれによって犠牲になっているものがあると思います。
それは、自分の内なる共同体、自分のカラダです。
本来、私たちのカラダは百人百様みな違いますし、
私たち自身のカラダの内部も様々な内臓やらシステムやらの、
共同体で出来ています。
そこには、それぞれの欲求と要求があります。
腎臓は、疲れて休みたいと言っているかも知れません。
首や肩は、少し動きたいと言っているかも知れません。
けれど、コミュニティの中にいると、
自分自身の内なる声は聞こえなくなり、
自分のカラダからのサインはかき消されてしまいます。
どうしたら、外のコミュニティをないがしろにすることなく、
同時に個人でいることができるでしょうか。
自分の属する、社会、家族、会社、学校、友人などのグループ、
さまざまなコミュニティと、
どんな距離を持ち、どんな関わり方をするのかは、
個人それぞれが答えを見つけていくものだと思いますが、
柔軟な境界線(バウンダリー)を持つということは、
重要ではないかと思います。
このバウンダリーは私たち日本人にとってとても大事な考え方だと思うので、
また別の機会に触れたいと思いますが、
ここでは簡単に自分と他者とを分ける境界線としておきます。
柔軟ということは、時にはコミュニティと一体となって、
一緒に働き、一緒に学び、一緒に楽しむけれど、
バウンダリーを閉じることが必要な時には、
ちゃんと閉じることが出来る状態です。
バウンダリーを閉じるとは、
断ることであったり、
少し距離を取って一時的に離れることであったり、
自分のココロやカラダの欲求を優先することであったりするかも知れません。
この年末、是非ご自分の内なるコミュニティの声にも、
耳を傾けてみてください。