これからを生きるためのサイコシンセシス 自分の芯を作る
以前のブログで、強制収容所や捕虜生活といった過酷な状況をサバイバルしたフランクルやストックデールから、「生きる目的を持つ」こと、「信念と、厳しい現実を直視する規律(自制心)」の両方を持つことの重要性を紹介しました。
そして、前回のブログでは、食べ過ぎを防ぐために「巧みな意志」を使うことをご紹介しました。
これらは、すべて目先の欲求や、不安や恐怖といった感情に振り回されるのではなく
それらと上手に付き合いながら、自分の信念や目的、ビジョンを中心に生きていこうとする、
サイコシンセシスの目指す在り方と同じです。
それもそのはずです。サイコシンセシス は、誰にでもある人間としての可能性を最大限に発揮して生きた人々を研究し、そうした人々が心の内側で、何をしているのかを研究したものだからです。
フランクルやストックデールもまた、過酷な状況に置かれながらも、人間性を捨てずに、絶望や不安や恐怖に押しつぶされず、サイコシンセシス的に自分の信念や目的を胸に生きたのです。
コロナ禍によって世界中が大混乱に巻き込まれることは、少数の学者くらいしか予期出来なかったことですが、恐らくこれからも、私たちはそうした不測の事態を生きていくことになるでしょう。
その度に、私たちの心が揺れ、周囲の世界に振り回され、自分を見失いかけてしまうのは、苦しいですよね。
周囲の世界で何か起こると心が揺れてしまうのは仕方のないことだけれど、波に浮かぶブイのように揺れながらも、戻ってこられる「中心」を持っていることは重要ではないでしょうか。
そこで、今回は、サイコシンセシスのエッセンスに触れてみたいと思います。
同一化と脱同一化
私たちには様々な「欲求」があり、怒りや不安、恐怖といった「感情」があり、頭の中をぐるぐる巡る「思考」があり、変化し続ける「身体」を持っている、とサイコシンセシスでは言います。
自分の中にある様々な要素を受け容れて、認めて、所有できなければ、逆に私たちはそれに振り回されます。
怒ってプリプリしているのに、「怒ってない!」と否定する方を見かけることはありませんか。
その方は、自分の怒りに同一化してしまっているために、逆に怒りを所有することができず、怒りに支配されています。
不安を消そうとして逆に不安だらけになってしまう時も、緊張を隠そうとして余計に緊張してしまう時も、
それは不安や緊張を受容して所有できていないからです。
自分が感情より大きな存在になるには、欲求よりも大きな存在になるには、それを受容して、ちゃんと所有することが第一歩です。
そしてもう一つ、アサジオリは、私たちが同一化しているもの全てにコントロールされると言いました。
自分が感情だと思い込んでいれば、不安になれば不安に支配されます。
怒れば、怒りに支配されます。
逆に、脱同一化しているものは、私たちがコントロールすることができるのです。
脱同一化とは、同一化してしまっているものから離れることです。
私たちは「欲求」でもなく、怒りや不安、恐怖といった「感情」でもなく、頭の中をぐるぐる巡る「思考」でもなく、変化し続ける「身体」でもない、のです。
それらは全て波のように生じては、消えていくものです。変化していくものです。
これらから離れることが出来たとき、初めて足場が出来ます。
自分の足で立てる場所ができるのです。
そして、そこからまるで指揮者がオーケストラを指揮するように、自分を指揮していくことが出来ます。
アメリカで最も影響力のある女性の一人にも選ばれたオプラ・ウィンフリーは、
「あなた自身の人生の運転席に座るのです。そうでなければ人生の方があなたを「運転」してしまうでしょう。」と表現しました。
自分に対する気づきはとても重要だけれど、それだけでは十分ではない、というのがサイコシンセシスの考えです。
運転手がどこへ向かうのか、指揮者がどんな曲をどう演奏しようとするのかという意志を重要視します。
指揮者の位置についたら、運転席についたら、自分の存在の中心にある意志に気づき、意志の働きを強めていくこと。
次回は、「意志の働き」を活性化するために私たちに出来ることをもう少し紹介したいと思います。